今さらだけど、「イノセンス」
「人はなぜ、人形を必要としているのか」
押井守監督の映画「イノセンス」をDVDで借りて観ました。
本来であれば劇場で観ることが筋だと思いつつも、
なかなか腰が上がらず、現在に至ってしまった。
舞台は、人々が電脳化され、声を出さずとも、コンピューター端末を打たなくとも、ネットワークを通じたデジタルコミュニケーションが可能になる一方、肉体の機械化も進み、人とサイボーグ(機械化人間)、ロボット(人形)が共存する、2032年の日本。魂が希薄になった時代。決してそう遠くない近未来を舞台に物語の幕が開く。
:「イノセンス公式HP」より
http://www.innocence-movie.jp/index.html
肉体の機械化が進んだ未来で、ロボットと人間とを区別するもの、それは、ゴーストと呼ばれる自我が存在するかどうかという、ひどく曖昧なものでしかのしかない。
自我とは何だろう。
自分、自己、行動や意識の主体。
他者や外界から区別して意識される自分。
他社の存在すら、自我の一部なのだろう。
自我を構成するもの、それは環境、経験、それらの記憶なのだろうか。人間の記憶ほど曖昧なものはない。記憶はけして正確ではなく、解釈によって姿を変える。
劇中で語る。
人は人形を見るときに恐れを感じる時がある。
その恐れは、人形の中に自分を見てしまうからだ。
肉体という要素は、自分を確定する、他社と区別する重要なものに違いない。もし肉体を失ったとしたら。人形のように、中身は空っぽなのかもしれない。そんな恐れだろうか。
押井監督の作品は、常に存在や意味の希薄さが漂っている。
だからといって、けして悲観しているわけではない。
意味がないから、意味を作るのだ。
人間には創造する力がある。
僕は勝手にそう解釈している。
押井監督の作品に向き合える事が出来たという事は、自分自身と素直に向き合えるようになったのかもしれない。
また、いつか胸を張って押井さんと会いたい、心からそう感じた。
押井守監督の映画「イノセンス」をDVDで借りて観ました。
本来であれば劇場で観ることが筋だと思いつつも、
なかなか腰が上がらず、現在に至ってしまった。
舞台は、人々が電脳化され、声を出さずとも、コンピューター端末を打たなくとも、ネットワークを通じたデジタルコミュニケーションが可能になる一方、肉体の機械化も進み、人とサイボーグ(機械化人間)、ロボット(人形)が共存する、2032年の日本。魂が希薄になった時代。決してそう遠くない近未来を舞台に物語の幕が開く。
:「イノセンス公式HP」より
http://www.innocence-movie.jp/index.html
肉体の機械化が進んだ未来で、ロボットと人間とを区別するもの、それは、ゴーストと呼ばれる自我が存在するかどうかという、ひどく曖昧なものでしかのしかない。
自我とは何だろう。
自分、自己、行動や意識の主体。
他者や外界から区別して意識される自分。
他社の存在すら、自我の一部なのだろう。
自我を構成するもの、それは環境、経験、それらの記憶なのだろうか。人間の記憶ほど曖昧なものはない。記憶はけして正確ではなく、解釈によって姿を変える。
劇中で語る。
人は人形を見るときに恐れを感じる時がある。
その恐れは、人形の中に自分を見てしまうからだ。
肉体という要素は、自分を確定する、他社と区別する重要なものに違いない。もし肉体を失ったとしたら。人形のように、中身は空っぽなのかもしれない。そんな恐れだろうか。
押井監督の作品は、常に存在や意味の希薄さが漂っている。
だからといって、けして悲観しているわけではない。
意味がないから、意味を作るのだ。
人間には創造する力がある。
僕は勝手にそう解釈している。
押井監督の作品に向き合える事が出来たという事は、自分自身と素直に向き合えるようになったのかもしれない。
また、いつか胸を張って押井さんと会いたい、心からそう感じた。